投稿

激動の昭和史秘めた原風景(江戸城)

イメージ
東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。 1457(長禄元)年、太田道灌が、その砦跡に中世の城郭を築き、こう歌いました。「わが庵は松原築き海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」。当時は、今の大手町から東京駅一帯が、海に臨んだ松原だったといいます。 この台地で、本格的な築城工事が始まったのは、1606(慶長11)年のことで、徳川氏の代になってからでした。工事は延々と続き、江戸城が外郭・内郭共に完成したのは、実に33年後の1639(寛永16)年でした。 ところが、江戸城は、どうも火と因縁が深かったらしく、城の全容が整ってからわずか18年後、振袖火事と言われた明暦の大火で、本丸の5層の天守閣が燃え、その後再建されることはありませんでした。本丸の館も、1863(文久3)年に焼けてしまい、西の丸が将軍の居館となりました。 このため、諸大名が登城する時は、西丸大手門から、今の皇居正門石橋を渡り、中仕切門を通って、下垂橋(現・皇居正門鉄橋)を渡ったといいます。この下垂橋は、堀が深かったため、橋を架けてその上に橋を渡した二重構造になっていました。二重橋という名は、そこから起こりました。 勝海舟の策によって、維新の戦火を免れた江戸城は、明治になって皇居となりますが、火との因縁は切れず、1873(明治6)年5月、またまた炎上。1884年から4年の歳月をかけて造営工事が行われました。全国から木材が献上され、紅白に飾られた牛が、幣を立てた木材を運びました。この時、二重橋も、ドイツ製の鉄の橋に架け替えられました。 二重橋は、その後、1964(昭和39)年に改装されましたが、橋の見える風景は、激動の昭和史と深く結びついていて、人々の感慨を誘わずにおきません。最も日本的風景がここにあります。

城のある風景 記事一覧

イメージ
●江戸城 激動の昭和史秘めた原風景 東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。→ つづきを読む ●姫路城 守られ続けた世界の名城 JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。 姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。 → つづきを読む ●郡山城 地蔵仏の慈悲心秘めて430余年 奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封と・・ → つづきを読む ●多賀城 蝦夷の誇りに対峙した拠点 古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰は、「撃ちて取るべし」と断じました。仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれた ・・ → つづきを読む ●金沢城 加賀百万石初期の苦悩 加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成 ・・ → つづきを読む ●岡山城 名園と一対の黒の名城 黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。 → つづきを読む ●大坂城 復活した太閤さんの城 大坂城といえば、誰もが思いつくのは、豊臣秀吉・太閤さんでしょう。下層階級からのし上がっていった秀吉は、自らの政権をうち立てた時、栄華を誇示し、大坂城を金・銀で飾りたてました。大坂城は、もともとは石山本願寺があった所で、地勢上も優れた位置に → つづき...

守られ続けた世界の名城(姫路城)

イメージ
JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。 姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。1600(慶長5)年、池田輝政がこの地に入り、9年の歳月をかけて本格的な城造りに取り組みました。内堀から中堀、外堀へと広がる螺旋状の区割りや、大天守を中心に小天守を配した連立式天守閣の威容など、姫路の街と城の骨格が、この時にほぼ姿を現しました。 工事に動員された人々は、約2430万人に及んだといいます。1618(元和4)年には本多忠政が入城して、未完成だった西の丸などを構築して、城を完成させました。 白い漆喰を総塗籠めにした優美・壮麗な城は、その後もこの地の人々の誇りとされてきましたが、幕末期・鳥羽伏見の戦いの際は、戦火にさらされそうになります。幕府側だった姫路藩を、長州藩が備前岡山藩を前面に立てて攻めようとしたのです。 その岡山藩は、池田輝政を祖とします。城の遺徳が人々に不戦の途を選ばせ、城は無事開城となりました。 こうして幕末の危機を生き延びた姫路城でしたが、明治政府の廃城の方針の下で、この城も入札にかけられ、23円50銭で落札されました。落札した人は、城郭を解体して使おうとしたのですが、莫大な経費がかかることが分かって、事態は振り出しに戻りました。 1878(明治11)年、この名城の危機を、陸軍の中村重遠大佐が救います。当時、全国の城は陸軍の管轄下にあったのですが、彼の意見具申で保存が決まり、やがて明治の大修理が行われて、城はよみがえります。また、1934(昭和9)年からは昭和の大修理事業が始まり、2度の空襲にも耐えて、30年にも及ぶ工事が続きました。 1993(平成5)年12月には、ユネスコの世界文化遺産に登録。更に、2009年(平成21)年から始まった平成の修理は、2015年に工事が完了。改修でよみがえった城は、守り続けた人たちの熱い心で、白く輝いているかのようです。

地蔵仏の慈悲心秘めて430余年(郡山城)

イメージ
奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封となりました。 郡山城跡のある丘陵地帯は、中世の頃、郡山衆と呼ばれた武士団の居館がありました。城らしい形を整え出すのは、1580(天正8)年頃からで、その年の11月、筒井順慶が、織田信長からこの地を与えられました。 順慶は、翌1581年から築城を開始しましたが、次の年、信長は、明智光秀に討たれてしまいます。順慶に信長を紹介したのは光秀でしたから、順慶の立場は微妙なものになりました。 しかし、順慶は光秀の出陣要請にも動かず、籠城を続けました。ところが、後にどう間違ったのか、洞ケ峠に出陣して光秀と秀吉の戦いぶりを日和見していたことにされます。実際は、慎重派だったに過ぎない彼は、秀吉から大和一国を安堵されてからも築城を続け、天守も造ったと言われますが、本能寺の変から2年後、28歳の若さで世を去ります。 筒井氏に代わって郡山城に入ったのが、秀吉の異父弟・秀長でした。秀長は、1585(天正13)年、秀吉の名代として四国を征伐。その功によって大和を所領に加え、100万石の太守となりました。 このため、城はそれにふさわしく増築されることになり、奈良中から築城用の石が集められました。家ごとに小石が20荷、寺からは、庭石、五輪塔、地蔵仏までかき集められました。天守台北側裾の「逆地蔵」はその時のもので、1523(大永3)年の銘があります。その頃の戦乱の犠牲者を慰めるための、地蔵仏だったのでしょうか。 柳沢氏が城に入ったのは、秀長の築城から140年後のこと。郡山金魚は、あるいは耐えに耐えて地蔵に祈った、この地のご先祖の恵みだったのかもしれません。

蝦夷の誇りに対峙した拠点(多賀城)

イメージ
古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰(たけうちのすくね)は、「撃ちて取るべし」と断じました。 仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれたのは、724(神亀元)年のことだったといいます。 その頃、この地方の人々は蝦夷(えぞ、えみし)と呼ばれ、辺境の荒くれ者、まつろわぬ野蛮人と見られていました。上古から豊かな文化を誇っていた人々にとって、それはまさに征服者の論理でした。 律令国家の東北の拠点は多賀城と呼ばれました。外郭およそ900m四方の周囲には、高さ1m、幅2.3mの築地が巡らされて、陸奥の国府と鎮守府が置かれ、政治・軍事の中枢となっていました。 初め、政庁の建物は、全て掘っ立て柱構造でした。しかし、760年から780年頃には、主な建物が礎石を使う構造に改築され、門も整備されて、蝦夷を威圧するかのようであったといいます。 が、780(宝亀11)年3月、見下され、蔑視された人々が立ち上がります。俘囚(律令国家に帰服した蝦夷)の族長である伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が、抵抗の火の手を上げ、郡の長官と巡察高級官を殺害し、多賀城を襲います。彼らは、倉庫に積まれた品々を奪い、城に火を放って引き揚げました。 江戸時代、この城跡から多賀城碑という砂岩が発掘されました。碑は、古来有名な「壼の碑(つぼのいしぶみ)」と言われていますが、この碑には城の起源が刻まれ、多賀城の位置をこう刻んで、当時の蝦夷最前線の緊迫感を伝えています。 「京を去ること1500里、蝦夷の国界を去ること120里」

加賀百万石初期の苦悩(金沢城)

イメージ
加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。 1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成、そこは御山とも呼ばれて、北陸一帯の組織の中核となりました。 中世的な体制を破っていった織田信長は、一向宗門徒組織とも激しく対立し、各地で一向一揆の鎮圧に乗り出し、金沢御堂もまた織田方の柴田勝家の猛攻にさらされました。1580(天正8)年、金沢御堂は激戦の果てに陥落、佐久間盛政が、この仏法の法城に入りました。 門徒組織の真っただ中に乗り込んだ盛政は、直ちに土塁を築き、堀をうがち、「御山」を「尾山」と改めて城の名としました。更に3年後、前田利家がこの地に入り、加賀百万石の祖となりました。 利家は、一揆鎮圧にも腕をふるい、門徒をはりつけや釜ゆでにしたといいますから、彼にとっても、この地は敵地でした。城は、かつての御山の面影を留めぬほどに改築されねばなりませんでした。 城は、浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の突端にありましたが、城の向きが北北東に変えられ、今の河北門が正門に改められました。1610(慶長15)年には、内堀や外堀も完成しました。 その後、金沢城は火事に遭いますが、裏門にあたる石川門は、1788(天明8)年に再建され、4〜7mmの鉛瓦で葺かれました。鉛瓦が使われたのは、いざという時に溶かして弾丸にするためでした。 加賀を治めた前田氏は、幕府にとっては目障りな外様の大大名でした。領民は門徒の恨みひきずり、油断ならず、城が安穏であったのは、3代藩主から後のことだったといいます。

名園と一対の黒の名城(岡山城)

イメージ
黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。天守閣の手本とも言われていますから、もし烏城が安土城を模したものなら、その安定した姿に基本型が残されているかもしれません。 岡山城は、戦国武将の宇喜多直家が手に入れて大改修したもので、1573(天正元)年に居城としました。武田信玄が死んだ年です。山陽道も、その時に城下町を通るように改められました。 直家の子が、豊臣政権五大老の一人となった秀家で、1590(天正18)年から8年の歳月をかけて城を改築しました。旭川の流れも、本流から引き込んで、城をめぐる形に変え、川の土を積み上げて本丸を築き、烏城もその時に雄姿を現しました。 ですが、このユニークな天守閣を造った秀家は、関ケ原の合戦で豊臣側となって敗れ、八丈島に流されてしまいます。 代わって、烏城には小早川秀秋が入り、その後、1603(慶長8)年、江戸幕府が開かれた年に、池田氏が岡山藩の城主となりました。姫路城を築いた池田氏の流れです。岡山城の月見櫓は、姫路城のイメージを生かしてつくられたといいます。 更に1632(寛永9)年、池田光政が鳥取から入って、岡山31万5000石を治めることになります。岡山城は、それから明治維新まで池田氏の居城となり、天守閣もそのまま残りましたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失、今のものは鉄筋コンクリートで復元したものです。 城から、旭川にかかった月見橋を渡れば、天下の名園・後楽園があります。昔は、天守閣の下から舟で渡ったそうです。城と名園が一対になって、岡山の心の豊かさを伝えているかのようです。