城のある風景 記事一覧

●江戸城
東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。→つづきを読む
●姫路城
守られ続けた世界の名城
JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。つづきを読む
●郡山城
地蔵仏の慈悲心秘めて430余年
奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封と・・つづきを読む
●多賀城
蝦夷の誇りに対峙した拠点
古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰は、「撃ちて取るべし」と断じました。仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれた・・つづきを読む
●金沢城
加賀百万石初期の苦悩
加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成・・つづきを読む
●岡山城
名園と一対の黒の名城
黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。つづきを読む
●大坂城
復活した太閤さんの城
大坂城といえば、誰もが思いつくのは、豊臣秀吉・太閤さんでしょう。下層階級からのし上がっていった秀吉は、自らの政権をうち立てた時、栄華を誇示し、大坂城を金・銀で飾りたてました。大坂城は、もともとは石山本願寺があった所で、地勢上も優れた位置につづきを読む
●横手城
先人の悩み秘めた雪の里
東北は、かつて「白河以北一山百文」と言われ、ひとしなみに蔑視され、差別されました。明治維新の折の戊辰戦争が遠因だと言われています。戊辰戦争で、東北は揺れました。薩長の下級武士の思い上がりに対する反発もあって、列藩同盟まで結成して・・つづきを読む
●彦根城
開国の大老を偲ぶ天守閣
彦根市は古くから開けた滋賀県東部の中心都市ですが、かつて明治の薩長藩閥政府からは、国賊の町として卑しめられたといいます。安政年間、強い指導力を発揮した大老・井伊直弼は、彦根藩主でもありました。つづきを読む
●小田原城
天下に抗した町ぐるみの城
ああでもない、こうでもない、どうすればいい、そりゃだめだと、なかなか結論が出なくて会議が長引くと、「小田原評定」などと言われます。小田原城で評定が行われたのは、1590(天正18)年のことで、その年の3月、豊臣秀吉は、なんと21万の大軍で・・つづきを読む
●富山城
季節に散る花、咲き競う花
チューリップは富山の県花で、戦後に復元された富山城の天守閣とも、見事な調和を見せます。この花は、オランダで改良が進み、日本へは幕末に入ったと言われます。栽培が盛んになったのは、明治の後半だそうですから、江戸時代の富山の殿様は・・つづきを読む
●函館城
つかの間の夢の青空
五稜郭の名で知られる函館の城は、西洋式の設計で、1857(安政4)年11月から工事が始まり、7年後の1864(元治元)年、完工を待たず、ここに函館奉行所が置かれました。この城は、日米和親条約による開港に備えて、急いで造ることになったもので・・つづきを読む
●犬山城
木曽川見下ろす白帝城
木曽川は、長野県の鉢盛山に源を発して、美濃高原をゆったり蛇行し、飛騨川を合わせて犬山で濃尾平野に入り、伊勢湾に注ぎます。全長209km。この川を治め、水をどう利用するかは尾張地方の古くからの課題だったといいます。つづきを読む
●平戸城
今に示す松浦党の誇り
平戸の城は、海を外濠に見立てています。つまり海からの敵を想定した備えをとっており、海の覇者松浦氏ならではの城構えになっています。松浦党は、鎌倉・室町時代にかけて肥前松浦4郡に割拠していた武士団で、松浦源氏が中心となっていました。つづきを読む
●熊本城
予言秘めた名城の銀杏
今に残る大規模な構えの熊本城は、加藤清正が築きました。城の完成を記念して、2本の銀杏が、天守閣前に植えられました。その時、清正は銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。つづきを読む
●松本城
天守を傾けた農民の睨み
遠くに北アルプスを望む松本は、その昔、深志と呼ばれていました。鳥羽川を挟んで、北側が北深志、南は南深志といい、この川を外掘にして松本城が造られました。そして、南に武家屋敷、北には町家が配置されました。つづきを読む
●弘前城
新城にかけた藩祖の悲願
弘前城跡は公園になっていて、四季に美しい場所です。明治になって桜が植えられ、今は5000本。秋には、紅葉が天守の白壁に映えます。弘前城の天守閣は、もともとは5層で、本丸の西南の隅にあったと言われます。つづきを読む
●鳥取城
地獄図秘めた不落の名城跡
戦いにさらされた城には、悲しい話がつきまとっています。守るにしろ、攻めるにしろ、命をかけて武者たちが争ったのですから、それが当たり前なのかもしれませんが、鳥取城のケースは、目を覆いたくなるものがあります。つづきを読む
●高島城
歴史尊ぶ土地の堅牢な浮城
諏訪市は、諏訪3万石の城下町で、城主の居城・高島城は「諏訪の殿様よい城持ちやる、うしろ松原前は湖」と歌われ、小藩には過ぎた名城と言われました。高島城は、日根野高吉が築いたと言われ、1598(慶長3)年に完成しました。つづきを読む
●竹田城
興亡150余年の山城の石組み
城というと、とかく平地にある城を思い浮かべがちです。しかし、平地に城が築かれるようになったのは、織田信長や豊臣秀吉から後のことで、それ以前は山城が主流でした。城は、もともと戦いに備えたものですから、守り易くて、攻めにくい所に造られ・・つづきを読む
●肥前名護屋城
太閤が睨んだ海の霞の跡
佐賀県唐津市鎮西町は、九州の西北、松浦半島の北部に位置し、中心の名護屋港は玄界灘の漁業基地になっています。半島沖1kmには加部島が横たわり、「壁」となって玄海の荒波をさえぎっています。つづきを読む
●岩槻城
江戸城と共に造られた武蔵国の要
さいたま市岩槻区は、江戸時代の寛永年間以来、人形で知られた伝統の町です。日光御成街道の宿場町でもあった岩槻はもともと、太田道灌と父道真がひらいた岩槻城の城下町でした。岩槻城は、1457(長禄元)年に造られたと言われ、完成の年は江戸城と・・つづきを読む
●安土城
天下布武の想い秘められた城跡
1576(天正4)年1月、織田信長は、標高199mの安土山で城の普請を始めました。当時、信長は武田勝頼の軍を長篠に敗り、尾張から美濃、近江、伊勢一帯に威を示し、武をもって天下を治めようという勢いを見せていました。つづきを読む
●大垣城
関ケ原をめぐる興亡の歴史
大垣城の築城については二つの説があります。一つは、鎌倉中期の武将・佐々木信綱の子孫が築いたというもので、他の一説では、美濃上岐氏の一族が築いたとしています。大垣は、天下分け目の戦いがあった閤ケ原につながる道筋にあります。つづきを読む

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