予言秘めた名城の銀杏(熊本城)


今に残る大規模な構えの熊本城は、加藤清正が築きました。城の完成を記念して、2本の銀杏が、天守閣前に植えられました。その時、清正は銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。

慶長年間、清正は一大築城工事を始め、白川と坪井川、井芹川の三つの川を外濠と内濠に利用して、壮大な城を造りました。

熊本城には、大小3基の天守を含め、5階の櫓が5基もあったといいます。実戦に強い名城と言われ、特に石垣は、清正公石垣と呼ばれる独特のものでした。それは、武者返しとも呼ばれ、上がそり返った独特の構造で、敵兵がよじ登って来れば、上の所ではね返す形になっていました。

実戦についての考えは徹底していました。城内には、120カ所の深井戸を掘り、天守閣の畳の芯には、カンピョウとかズイキなど食料になるものが使われたといいます。籠城戦に耐えられるようになっていたのです。

この名城も、清正の後、2代忠広の時に細川氏のものとなってしまいます。家中をまとめきれていないということで改易になったのですが、加藤氏が去っても、予言は城に残りました。

1877(明治10)年、西南の役が起こります。兵乱とは関係のなかった熊本城ですが、この戦いに巻き込まれてしまいます。銀杏は成長して、天守の高さに達していました。

熊本城には、政府軍の谷干城らの熊本鎮守台兵が立てこもり、それを、西郷隆盛を擁した薩摩士族軍が襲います。守りに強い名城はびくともしませんでした。しかし、この時の城内の出火で、宇土櫓などを残して、主な建物は焼失しました。

3層6重の一の天守と、2層4重の二の天守は1960(昭和35)年に復元されました。が、2016(平成28)年4月の熊本地震で大きな被害を受け、現在は復興のシンボルとして最優先で工事が進められた天守閣など一部のみが復旧を終え、完全復旧は2037年と言われています。築城から焼失そして復元へ、銀杏は、その360年の歴史を見ていたことになります。

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