地獄図秘めた不落の名城跡(鳥取城)


戦いにさらされた城には、悲しい話がつきまとっています。守るにしろ、攻めるにしろ、命をかけて武者たちが争ったのですから、それが当たり前なのかもしれませんが、鳥取城のケースは、目を覆いたくなるものがあります。

鳥取城は、砂丘で知られた鳥取市の一角にそびえる山城で、堅固無類の城として知られていました。戦国時代、この地方では、山名氏や尼子氏、それに毛利氏が相せめぎ、やがて、天下布武を進める織田軍が西に侵攻して、毛利軍と激突することになりました。

1580(天正8)年6月、羽柴秀吉が中国地方総司令官として、鳥取城に迫り、町を焼き、人質を楯にして、城主を屈伏させてしまいます。ところが、これが気にくわないということで、重臣たちが新たな城主として吉川経家を迎え、鳥取城に立てこもってしまいました。

翌年6月、秀吉は2万の大軍を率いて鳥取城に向かい、城の周り3里(12km)四方を柵で囲みました。秀吉軍は、この地の米を買いあさり、辺りの農民をも城に追い込んだといわれ、城内は4000とも言われる人たちで満ちました。城につながる川には、乱杭や逆茂木が打ち込まれ、徹底した封鎖作戦がとられました。

鳥取城が難攻不落の山城であることを知り抜いていた秀吉は、「渇え殺し」といわれる作戦に出たのです。封鎖4カ月目に入ると、城内には飢え死ぬ者が続出し、牛馬はもとより木の実や皮など、食べられそうなものは、すべて食いつくされました。飢えて、骨と皮になった男や女が柵に取りすがって、出してくれとうめきました。それを、秀吉軍が鉄砲で射殺しました。城内の兵は、その死者の肉に取りついたといいます。

秀吉は、水攻めや兵糧攻めを得意としました。農民出の彼は、飢えのすさまじさを実感として知っていたに違いありません。知っていて飢餓地獄を実行したわけです。

明治になって解体された鳥取城は、1963(昭和38)年に修復され、静かな城跡には悲惨な過去の片影もありません。 

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