太閤が睨んだ海の霞の跡(肥前名護屋城)


佐賀県唐津市鎮西町は、九州の西北、松浦半島の北部に位置し、中心の名護屋港は玄界灘の漁業基地になっています。半島沖1kmには加部島が横たわり、「壁」となって玄海の荒波をさえぎっています。

豊臣秀吉が、この地に朝鮮出兵の本営を置くことにしたのは、1591(天正19)年8月のことでした。その年1月、秀吉の弟秀長が51歳で逝き、2月には千利休が切腹、8月、子の鶴松丸が3歳で死にましだ。その同じ8月、秀吉の決定が下されたのです。

名護屋には、東西3町、南北2町の規模の城が築かれることになり、10月から、1日に4、5万人という膨大な人数が動員されて、工事が始まりました。敷地内の標高80余mの勝男岳頂上には本丸が置かれ、五層七階の天守閣が築かれました。天守は、造営担当の鍋島氏が、居城の天守閣を移築したものだったと言われます。また城外2里四方には全国諸将の屋敷始め商家や宿屋、遊郭まで造られ、南の小漁港はたちまち全国有数の大都市に変貌しました。

翌年4月、秀吉は約3万の将卒を率いて名護屋城に入りました。淀君もそれに従い、大坂から秀吉自慢の組立式の黄金の茶室も運び込まれました。5月、小西行長の軍勢が釜山攻撃に向かい、同じ月、秀吉は黄金の茶室で茶会を催しました。絶頂期の秀吉は、怖いもの知らずのやんちゃ坊主のようでした。

しかしその年7月、秀吉の母が病に倒れます。秀吉は、直ちに大坂へ帰りましたが、母の臨終に立ち会うことはできませんでした。その秀吉自身、母が死んでわずか6年後、63歳でこの世を去り、無謀な朝鮮出兵も終結となります。

名護屋城下の賑わいは、秀吉のうたかたの夢でしかありませんでした。出兵騒ぎが終わると、名護屋城も放置され、今は崩れ落ちた石垣が残るのみです。城跡に建つ「太閤が睨みし海の霞哉(青木月斗)」の句碑が、巨人の夢を偲ばせています。

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