天下布武の想い秘められた城跡(安土城)
1576(天正4)年1月、織田信長は、標高199mの安土山で城の普請を始めました。当時、信長は武田勝頼の軍を長篠に敗り、尾張から美濃、近江、伊勢一帯に威を示し、武をもって天下を治めようという勢いを見せていました。
今の安土は、JR東海道線の京都から11番目の駅で、城跡は駅から歩いて20分ばかりの所にあり、安土山も思ったほどには高くありません。しかし、信長が城を築いた頃は、京都につながる要衝の地と見られ、朝廷のある京都を支配するには格好の位置にありました。
城造りには、丹羽長秀が当たり、周辺の武士が動員されました。京都や奈良、堺の大工や職人が集められ、石垣を築くための石材は、辺りの寺から持ち込まれました。石仏をこわし、石臼をころがして積み上げたりもしました。当時、信長は石山本願寺との戦いの真っただ中にあって、仏門が俗世間を支配する中世的な権力構造と鋭く対立していました。
1579(天正7)年5月、安土城が完成すると、信長は早速移り住んで、法華と浄土の僧侶を対論させ、自らがその勝敗を判定しました。石山本願寺との戦いも、1580(天正8)年、信長の勝利で終わります。安土城は、信長によって開かれようとしていた新しい時代のシンボルでもありました。
安土城は、金箔の瓦を置いた五層七重の天守閣を持ち、天守の内部は上下七層を通して狩野永徳の描いた障壁画で飾られていたといいます。最上層には、中国の歴史に画題を得た三皇五帝などの人物画が描かれ、城に招かれたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスらは、あまりの見事さに圧倒されたとも言われます。
しかし、城が完成してわずか3年後、1582(天正10)年6月、信長は天下布武の願い半ばで本能寺に倒れ、城もまた同じ月、焼失しました。安土の天守で、49歳の信長が思い描いていたのは、どんな世であったのでしょうか、そんな感慨を誘う城跡です。
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