関ケ原をめぐる興亡の歴史(大垣城)
大垣は、天下分け目の戦いがあった閤ケ原につながる道筋にあります。この位置が、大垣城の興亡にもかかわることになります。関ケ原は、奈良時代の東山道(後の中山道)の関所・不破の関があった所で、大垣は、そこに至る交通の重要拠点でした。
この大垣城が、歴史の表舞台に登場してくるのは、1600(慶長5)年のことで、その年6月、徳川家康が、上洛に応じない会津の上杉景勝を討つという名目で、大坂城を出発しました。豊臣氏ゆかりの加藤清正や福島正則らもこれに従って、7月には江戸城に入りました。
当時、五大老トップの家康と、五奉行の一人・石田三成とが対立、家康は、三成に挙兵させてこれを叩く機会をうかがっていたと言われ、会津攻めは、そのための布石であったといいます。
家康の軍勢が会津へ向かったとみた三成は、毛利輝元をかつぎ出して諸将に呼びかけ、7月、手始めにまず伏見城を攻め、これを落として、8月、6000の兵を率いて大垣城に入りました。計算通り三成が動いたので、家康も会津攻めを中止して兵を引き返し、家康軍の先鋒となった福島正則らは、岐阜城を攻めました。
家康は、9月1日に江戸城を発ちましたが、城攻めをする気はもともと無くて、三成軍を関ケ原に誘い出し、野戦で決着をつけようという作戦に出ました。家康軍は「一気に大坂城を討つ」というニセの情報を流し、これにのった三成軍は15日午前1時、大軍を関ケ原に移動させてしまいます。家康の思惑通りになったわけです。
一方、大垣城は三成の娘婿が守って、23日まで持ちこたえましたが、家康の勧告で城を開け渡すことになります。
今の天守閣は1949(昭和24)年に復元され、城祉公園のシンボルとして、城をめぐる人々の興亡を偲ばせています。
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