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激動の昭和史秘めた原風景(江戸城)

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東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。 1457(長禄元)年、太田道灌が、その砦跡に中世の城郭を築き、こう歌いました。「わが庵は松原築き海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」。当時は、今の大手町から東京駅一帯が、海に臨んだ松原だったといいます。 この台地で、本格的な築城工事が始まったのは、1606(慶長11)年のことで、徳川氏の代になってからでした。工事は延々と続き、江戸城が外郭・内郭共に完成したのは、実に33年後の1639(寛永16)年でした。 ところが、江戸城は、どうも火と因縁が深かったらしく、城の全容が整ってからわずか18年後、振袖火事と言われた明暦の大火で、本丸の5層の天守閣が燃え、その後再建されることはありませんでした。本丸の館も、1863(文久3)年に焼けてしまい、西の丸が将軍の居館となりました。 このため、諸大名が登城する時は、西丸大手門から、今の皇居正門石橋を渡り、中仕切門を通って、下垂橋(現・皇居正門鉄橋)を渡ったといいます。この下垂橋は、堀が深かったため、橋を架けてその上に橋を渡した二重構造になっていました。二重橋という名は、そこから起こりました。 勝海舟の策によって、維新の戦火を免れた江戸城は、明治になって皇居となりますが、火との因縁は切れず、1873(明治6)年5月、またまた炎上。1884年から4年の歳月をかけて造営工事が行われました。全国から木材が献上され、紅白に飾られた牛が、幣を立てた木材を運びました。この時、二重橋も、ドイツ製の鉄の橋に架け替えられました。 二重橋は、その後、1964(昭和39)年に改装されましたが、橋の見える風景は、激動の昭和史と深く結びついていて、人々の感慨を誘わずにおきません。最も日本的風景がここにあります。

城のある風景 記事一覧

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●江戸城 激動の昭和史秘めた原風景 東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。→ つづきを読む ●姫路城 守られ続けた世界の名城 JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。 姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。 → つづきを読む ●郡山城 地蔵仏の慈悲心秘めて430余年 奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封と・・ → つづきを読む ●多賀城 蝦夷の誇りに対峙した拠点 古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰は、「撃ちて取るべし」と断じました。仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれた ・・ → つづきを読む ●金沢城 加賀百万石初期の苦悩 加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成 ・・ → つづきを読む ●岡山城 名園と一対の黒の名城 黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。 → つづきを読む ●大坂城 復活した太閤さんの城 大坂城といえば、誰もが思いつくのは、豊臣秀吉・太閤さんでしょう。下層階級からのし上がっていった秀吉は、自らの政権をうち立てた時、栄華を誇示し、大坂城を金・銀で飾りたてました。大坂城は、もともとは石山本願寺があった所で、地勢上も優れた位置に → つづき...

守られ続けた世界の名城(姫路城)

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JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。 姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。1600(慶長5)年、池田輝政がこの地に入り、9年の歳月をかけて本格的な城造りに取り組みました。内堀から中堀、外堀へと広がる螺旋状の区割りや、大天守を中心に小天守を配した連立式天守閣の威容など、姫路の街と城の骨格が、この時にほぼ姿を現しました。 工事に動員された人々は、約2430万人に及んだといいます。1618(元和4)年には本多忠政が入城して、未完成だった西の丸などを構築して、城を完成させました。 白い漆喰を総塗籠めにした優美・壮麗な城は、その後もこの地の人々の誇りとされてきましたが、幕末期・鳥羽伏見の戦いの際は、戦火にさらされそうになります。幕府側だった姫路藩を、長州藩が備前岡山藩を前面に立てて攻めようとしたのです。 その岡山藩は、池田輝政を祖とします。城の遺徳が人々に不戦の途を選ばせ、城は無事開城となりました。 こうして幕末の危機を生き延びた姫路城でしたが、明治政府の廃城の方針の下で、この城も入札にかけられ、23円50銭で落札されました。落札した人は、城郭を解体して使おうとしたのですが、莫大な経費がかかることが分かって、事態は振り出しに戻りました。 1878(明治11)年、この名城の危機を、陸軍の中村重遠大佐が救います。当時、全国の城は陸軍の管轄下にあったのですが、彼の意見具申で保存が決まり、やがて明治の大修理が行われて、城はよみがえります。また、1934(昭和9)年からは昭和の大修理事業が始まり、2度の空襲にも耐えて、30年にも及ぶ工事が続きました。 1993(平成5)年12月には、ユネスコの世界文化遺産に登録。更に、2009年(平成21)年から始まった平成の修理は、2015年に工事が完了。改修でよみがえった城は、守り続けた人たちの熱い心で、白く輝いているかのようです。

地蔵仏の慈悲心秘めて430余年(郡山城)

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奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封となりました。 郡山城跡のある丘陵地帯は、中世の頃、郡山衆と呼ばれた武士団の居館がありました。城らしい形を整え出すのは、1580(天正8)年頃からで、その年の11月、筒井順慶が、織田信長からこの地を与えられました。 順慶は、翌1581年から築城を開始しましたが、次の年、信長は、明智光秀に討たれてしまいます。順慶に信長を紹介したのは光秀でしたから、順慶の立場は微妙なものになりました。 しかし、順慶は光秀の出陣要請にも動かず、籠城を続けました。ところが、後にどう間違ったのか、洞ケ峠に出陣して光秀と秀吉の戦いぶりを日和見していたことにされます。実際は、慎重派だったに過ぎない彼は、秀吉から大和一国を安堵されてからも築城を続け、天守も造ったと言われますが、本能寺の変から2年後、28歳の若さで世を去ります。 筒井氏に代わって郡山城に入ったのが、秀吉の異父弟・秀長でした。秀長は、1585(天正13)年、秀吉の名代として四国を征伐。その功によって大和を所領に加え、100万石の太守となりました。 このため、城はそれにふさわしく増築されることになり、奈良中から築城用の石が集められました。家ごとに小石が20荷、寺からは、庭石、五輪塔、地蔵仏までかき集められました。天守台北側裾の「逆地蔵」はその時のもので、1523(大永3)年の銘があります。その頃の戦乱の犠牲者を慰めるための、地蔵仏だったのでしょうか。 柳沢氏が城に入ったのは、秀長の築城から140年後のこと。郡山金魚は、あるいは耐えに耐えて地蔵に祈った、この地のご先祖の恵みだったのかもしれません。

蝦夷の誇りに対峙した拠点(多賀城)

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古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰(たけうちのすくね)は、「撃ちて取るべし」と断じました。 仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれたのは、724(神亀元)年のことだったといいます。 その頃、この地方の人々は蝦夷(えぞ、えみし)と呼ばれ、辺境の荒くれ者、まつろわぬ野蛮人と見られていました。上古から豊かな文化を誇っていた人々にとって、それはまさに征服者の論理でした。 律令国家の東北の拠点は多賀城と呼ばれました。外郭およそ900m四方の周囲には、高さ1m、幅2.3mの築地が巡らされて、陸奥の国府と鎮守府が置かれ、政治・軍事の中枢となっていました。 初め、政庁の建物は、全て掘っ立て柱構造でした。しかし、760年から780年頃には、主な建物が礎石を使う構造に改築され、門も整備されて、蝦夷を威圧するかのようであったといいます。 が、780(宝亀11)年3月、見下され、蔑視された人々が立ち上がります。俘囚(律令国家に帰服した蝦夷)の族長である伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が、抵抗の火の手を上げ、郡の長官と巡察高級官を殺害し、多賀城を襲います。彼らは、倉庫に積まれた品々を奪い、城に火を放って引き揚げました。 江戸時代、この城跡から多賀城碑という砂岩が発掘されました。碑は、古来有名な「壼の碑(つぼのいしぶみ)」と言われていますが、この碑には城の起源が刻まれ、多賀城の位置をこう刻んで、当時の蝦夷最前線の緊迫感を伝えています。 「京を去ること1500里、蝦夷の国界を去ること120里」

加賀百万石初期の苦悩(金沢城)

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加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。 1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成、そこは御山とも呼ばれて、北陸一帯の組織の中核となりました。 中世的な体制を破っていった織田信長は、一向宗門徒組織とも激しく対立し、各地で一向一揆の鎮圧に乗り出し、金沢御堂もまた織田方の柴田勝家の猛攻にさらされました。1580(天正8)年、金沢御堂は激戦の果てに陥落、佐久間盛政が、この仏法の法城に入りました。 門徒組織の真っただ中に乗り込んだ盛政は、直ちに土塁を築き、堀をうがち、「御山」を「尾山」と改めて城の名としました。更に3年後、前田利家がこの地に入り、加賀百万石の祖となりました。 利家は、一揆鎮圧にも腕をふるい、門徒をはりつけや釜ゆでにしたといいますから、彼にとっても、この地は敵地でした。城は、かつての御山の面影を留めぬほどに改築されねばなりませんでした。 城は、浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の突端にありましたが、城の向きが北北東に変えられ、今の河北門が正門に改められました。1610(慶長15)年には、内堀や外堀も完成しました。 その後、金沢城は火事に遭いますが、裏門にあたる石川門は、1788(天明8)年に再建され、4〜7mmの鉛瓦で葺かれました。鉛瓦が使われたのは、いざという時に溶かして弾丸にするためでした。 加賀を治めた前田氏は、幕府にとっては目障りな外様の大大名でした。領民は門徒の恨みひきずり、油断ならず、城が安穏であったのは、3代藩主から後のことだったといいます。

名園と一対の黒の名城(岡山城)

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黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。天守閣の手本とも言われていますから、もし烏城が安土城を模したものなら、その安定した姿に基本型が残されているかもしれません。 岡山城は、戦国武将の宇喜多直家が手に入れて大改修したもので、1573(天正元)年に居城としました。武田信玄が死んだ年です。山陽道も、その時に城下町を通るように改められました。 直家の子が、豊臣政権五大老の一人となった秀家で、1590(天正18)年から8年の歳月をかけて城を改築しました。旭川の流れも、本流から引き込んで、城をめぐる形に変え、川の土を積み上げて本丸を築き、烏城もその時に雄姿を現しました。 ですが、このユニークな天守閣を造った秀家は、関ケ原の合戦で豊臣側となって敗れ、八丈島に流されてしまいます。 代わって、烏城には小早川秀秋が入り、その後、1603(慶長8)年、江戸幕府が開かれた年に、池田氏が岡山藩の城主となりました。姫路城を築いた池田氏の流れです。岡山城の月見櫓は、姫路城のイメージを生かしてつくられたといいます。 更に1632(寛永9)年、池田光政が鳥取から入って、岡山31万5000石を治めることになります。岡山城は、それから明治維新まで池田氏の居城となり、天守閣もそのまま残りましたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失、今のものは鉄筋コンクリートで復元したものです。 城から、旭川にかかった月見橋を渡れば、天下の名園・後楽園があります。昔は、天守閣の下から舟で渡ったそうです。城と名園が一対になって、岡山の心の豊かさを伝えているかのようです。

復活した太閤さんの城(大坂城)

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大坂城といえば、誰もが思いつくのは、豊臣秀吉・太閤さんでしょう。下層階級からのし上がっていった秀吉は、自らの政権をうち立てた時、栄華を誇示し、大坂城を金・銀で飾りたてました。 大坂城は、もともとは石山本願寺があった所で、地勢上も優れた位置にありました。織田信長は本願寺を攻めてここを手に入れ、後を襲った秀吉がここに城を築いたのですが、その子秀頼の代で、徳川勢に攻められて落城してしまいました。 徳川氏は、権威を示すためにも、太閤さんを上回る城を造り上げねばなりませんでした。諸大名を動員して大改修をやり、太閤さん時代の敷地の上に10mもの盛り土をして工事をやりました。よほど豊臣氏の影を払い除けたかったのでしょう。 運ばれた大石の数は40万個にも及んだといいます。諸大名もうんざりしたでしょうが、石に紋様を刻んで、確かに協力しましたぞ、という印にしました。天守閣も造り変えられ、5層6階・59mほどのものになりました。 こうやって造り変えられた大坂城は、もう一度落城します。1868(慶応4)年1月、戊辰戦争が起きて炎上、徳川時代の大坂城は終わりとなります。天守閣は、既に1665(寛文5)年に落雷で燃え、無くなっていました。 それから大正に至るまで、大坂城は天守閣の無い城でしたが、太閤さん以来、城は大阪のシンボルとなっていました。ぜひとも天守閣が欲しいということになり、大阪の人々が立ち上がります。 1931(昭和6)年、大阪市民の手で高さ約53mの天守閣が再建されました。外観は、大坂夏の陣の塀風に描かれた形をとり、初の鉄筋コンクリート造りのものになりました。全階エレベーター付きという近代型です。

先人の悩み秘めた雪の里(横手城)

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東北は、かつて「白河以北一山百文」と言われ、ひとしなみに蔑視され、差別されました。明治維新の折の戊辰戦争が遠因だと言われています。 戊辰戦争で、東北は揺れました。薩長の下級武士の思い上がりに対する反発もあって、列藩同盟まで結成して、北上する維新軍に抵抗しました。動き始めた時代に関する情報も、思うように手に入りませんでした。 もともと同盟に対して消極的であった秋田藩佐竹氏は、家老の戸村十太夫を列藩同盟に送り、調印させました。ところが、秋田は、尊皇思想家・平田篤胤を生んだ土地で、その考えが、青年武士の中に広がっていました。維新軍は、そこを狙ってけしかけました。1868(慶応4)年7月、一種のクーデターが起こり、秋田藩は列藩同盟を離脱してしまいます。同盟成立から2カ月後のことでした。 脱盟に怒った同盟側は、荘内藩兵を核とした軍勢をくり出して秋田藩を攻め、8月、同盟軍が横手城に殺到しました。 横手城は、1672(寛文12)年から、戸村氏が世襲で守りに当たっていたもので、秋田藩の支城でした。同盟調印の当事者であった戸村十太夫にしてみれば、誠につらい立場でしたが、本藩の意志決定には従うしかありません。 横手城の藩兵は、城下の横手川に架かる橋を断って防御を固めましたが、同盟軍は大木を橋代わりにして、大手口から攻め入りました。加えて、場内から火が出たものですから、藩兵も思うに任せず、城から脱出するしかありませんでした。既に7月、江戸は東京と改められ、明治はすぐそこまで来ていました。 横手城本丸跡にある天守閣は、模擬城で、郷土資料館になっており、中に戊辰戦争を描いた絵画が掲げられています。東北にとって、戊辰戦争とは何だったのでしょう。朝廷か、幕府か、選択に迷った先人たちの悩みの深さが秘められているようです。

開国の大老を偲ぶ天守閣(彦根城)

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彦根市は古くから開けた滋賀県東部の中心都市ですが、かつて明治の薩長藩閥政府からは、国賊の町として卑しめられたといいます。安政年間、強い指導力を発揮した大老・井伊直弼は、彦根藩主でもありました。 直弼が、大老として幕閣の最上位に列したのは、1858(安政5)年4月のことでした。その後、彼の強力なリーダーシップで日米修好通商条約が結ばれます。直弼を問責した水戸の徳川斉昭は謹慎を命ぜられ、その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で同じような条約が結ばれて、日本は開国の途を歩み出します。 尊皇攘夷派に対する大弾圧が始まったのは、その直後のことでした。 井伊家が居城としていた彦根城は、もともと、京都の抑えとして幕府が重要視した拠点でした。城の工事は、1603(慶長8)年から始まり、06年には高さ約24mの3層の天守閣が完成しました。上が狭く、下が曲線状に広がる花頭窓を持った、破風白壁の優美な天守でした。 築城に当たっては、周辺の寺院跡や古城から石が運ばれ、大津城や小谷城、長浜城を壊して用材が持ち込まれました。重要拠点づくりということで、7カ国12大名が協力して普請に当たったといいます。 城域およそ250万平方mに及ぶ工事は、ほぼ20年の歳月をかけて行われ、広い三重の堀、堅牢な高い石垣を誇る彦根城が完成、徳川譜代大名の筆頭井伊氏が治めることとなります。 直弼は、1850(嘉永3)年、病弱で死亡した兄の後を継いで、13代藩主となりましたが、運命の歯車が別に回っていたら、外濠のほとりの埋木舎で、静かな生涯を送ったのかもしれません。しかし、時代はこの人を求めたのでしょう。1860(万延元)年3月、直弼は水戸藩士に襲われ、雪を血に染め、逝きました。まだ46歳でした。 ※実は、彦根城の築城には、我が家の先祖も関わっています。徳川四天王の筆頭・井伊直政の従兄弟であった、先祖の鈴木重好は、直政の死後、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。そして、1603(慶長8)年、征夷大将軍となった家康の命により、直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。

天下に抗した町ぐるみの城(小田原城)

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ああでもない、こうでもない、どうすればいい、そりゃだめだと、なかなか結論が出なくて会議が長引くと、「小田原評定」などと言われます。 小田原城で評定が行われたのは、1590(天正18)年のことで、その年の3月、豊臣秀吉は、なんと21万の大軍で小田原攻略に向かいました。天下の大軍と争うことになって、城内では出撃か、籠城か、さてどうするかと軍議を尽くしましたが、結論が出ません。 ところが、3月末に小田原城下にやって来た秀吉軍は、力攻めに攻め取るのを止め、長期包囲作戦に出ました。 秀吉軍が、大軍で押し寄せたのは、この城が、どんなに攻めにくいか、よく知られていたからかもしれません。小田原城は、15世紀に、北条早雲が攻め取ったもので、3代目の氏康が二の丸の構えを造り、上杉謙信、武田信玄も、この構えを突き破ることが出来ませんでした。氏康は、更に三の丸を築造して構えを堅固にし、氏政の代になると、周囲10kmの大外郭で町を囲んでしまいました。町が城となり、城が町でした。こんな城はどこにもありません。 秀吉は先刻承知で、速攻は初めから考えていなかったでしょうし、大軍で出向いたのはデモンストレーションでもあったでしょう。20万石もの米を用意して町を包囲し、海上にも軍艦を配置して、北条側の輸送路を断ちました。後は、時間つぶしに酒宴や茶会。しかも周囲の支城はしっかり攻め取っていました。 しかし、小田原側も負けてはいません。食糧はたっぷり用意していましたから、こちらも酒宴で気を紛らわし、祭礼や市もいつもと変わらず行われるという有り様でした。 こうしておよそ100日、両軍の根比べが続きましたが、しょせん小田原は孤立無援、内通する者も出て来て、さすがの巨城も膝を屈しました。 巨大な城は、徳川氏の時代に壊され、本格的な天守閣も、明治に入って解体されてしまいました。今あるのは、戦後に再建されたもので、内部は博物館を兼ねています。

季節に散る花、咲き競う花(富山城)

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チューリップは富山の県花で、戦後に復元された富山城の天守閣とも、見事な調和を見せます。この花は、オランダで改良が進み、日本へは幕末に入ったと言われます。栽培が盛んになったのは、明治の後半だそうですから、江戸時代の富山の殿様は、当然ながらこの花のことなど知る由もありません。 富山藩は、徳川3代将軍家光の時代に、雄藩金沢藩の支藩として独立。1660(万治3)年、富山城が整備され、藩主の居城となりました。ですが、歴史の中の登場人物たちの選択が少し違っていれば、この城の主は、あるいは別の人物になっていたかもしれません。 人の命運はどこで分かれるか分かりません。昨日までは旭日昇天の勢いでも、今日は、孤城落日、余命いくばくもなし、ということになったりもします。戦国大名の盛衰が今でも話題になるのは、その恰好の事例だからでしょう。 織田信長に仕えた武将も、信長死後にのし上がって来た秀吉への対応によって、明暗の途を分けました。佐々成政もそんな武将の一人で、朝倉討ちや石山本願寺の一向一揆攻めなどに功のあった彼は、1581(天正9)年に越中富山を与えられ、富山城へ入りました。彼は城を整えて上杉勢と戦い、そのままなら、この地に武威を誇っていられました。ところがその翌年、本能寺の変で信長が急死してしまいます。 成政は、徳川家康や織田信雄と組んで秀吉と対抗、秀吉の側に立った前田利家の軍勢と戦う羽目に陥ります。これが衰運のきっかけで、結局は秀吉に切腹させられて一生を終わります。 一方、利家。朝倉討ちでは共に協力し合った仲の成政を攻め、成政が降伏した後は、その領地を手中にし、豊臣五大老の一人となって、子の利長は百万石を超す大大名、その孫が富山藩主として独立することになります。 散る花の後に見事な花が咲く。富山の城は、そんなことを語りかけているのかもしれません。

つかの間の夢の青空(函館城)

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五稜郭の名で知られる函館の城は、西洋式の設計で、1857(安政4)年11月から工事が始まり、7年後の1864(元治元)年、完工を待たず、ここに函館奉行所が置かれました。 この城は、日米和親条約による開港に備えて、急いで造ることになったもので、火砲の攻撃に耐えられるようにと、蘭学者が設計に当たりました。五稜郭の原型は、16世紀のヨーロッパで考え出されたものと言われ、函館ではオランダ式の星型五稜の築城法がとられました。 明治維新後、五稜郭は明治政府が接収しましたが、1868(明治元)年10月、この城を旧幕臣の軍勢が襲います。軍勢は旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられた者たちで、総勢3500名。会津で戦った新撰組副長の土方歳三も合流していました。 小さな戦闘はありましたが、政府側はことごとく敗北、10月25日には、箱館府知事以下の政府関係者が青森へ去りました。 国際法に詳しかった榎本は、11月に入ってイギリスやフランスの領事らと会談、国内の紛争には不干渉の立場をとる、という覚書をとりつけ、榎本らの集団を"事実上の政権"と認めさせました。 更に、榎本らの集団は上級士官以上の者たちによって選挙を行い、"政権"の代表などを決めました。投票総数は856票だったと言われ、総裁には榎本、副総裁には陸軍奉行並だった松平太郎が選ばれました。陸軍奉行には大鳥圭介、同格に土方歳三らが名を連ね、いわゆる"共和国"が誕生しました。 12月15日、"共和国"の出発を祝って祝砲が鳴り響きます。榎本らにとっては、この時が夢の青空が輝いていた時期だったでしょう。 1869(明治2)年正月、榎本らの"政権"承認を求めた嘆願は却下され、政府は圧倒的な軍勢で五稜郭に迫り、土方歳三も市街戦で逝きます。5月18日、五稜郭開城。"共和国"は、つかの間の夢に終わりました。

木曽川見下ろす白帝城(犬山城)

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木曽川は、長野県の鉢盛山に源を発して、美濃高原をゆったり蛇行し、飛騨川を合わせて犬山で濃尾平野に入り、伊勢湾に注ぎます。全長209km。この川を治め、水をどう利用するかは尾張地方の古くからの課題だったといいます。犬山城は、この川が大きく曲がる断崖の上にそびえ、尾張と美濃を一望のもとに捉える位置にあります。 川に臨んで天守がそびえているところから、江戸期にここを訪れた儒者・荻生徂徠は、犬山城を「白帝城」と呼びました。これは、中国・唐代の詩人李白の詩「早発白帝城」に因んだものといい、詩の中の「朝に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日に還る」に由来します。 詩の中の白帝城は、中国四川省の長江(揚子江)中流北岸に位置し、周りは峡谷で自然の要害として知られた所だといいます。『三国志』で有名な蜀漢の初代皇帝・劉備玄徳が、後事を丞相・諸葛孔明に託して亡くなった城としても知られています。 犬山城は、16世紀の半ば頃、織田信長の叔父に当たる信康が、今の場所に造ったと言われます。城の主は、その後めまぐるしく替わり、現在見るような3層5重の優美な天守閣(国宝)が出来たのは、関ケ原合戦の頃で、城下町もその頃に整備されたと言われます。 木曽川に臨み、濃尾平野を見下ろす要害の地は、徳川幕藩体制下の尾張藩にとっても重要な地でした。そのこともあってか、この城には尾張藩の筆頭家老成瀬氏が入りました。成瀬氏は、もともとは徳川家康の旗本で、この地も家康から与えられたといいますから、言ってみれば、尾張藩お目付け役のようなものでした。 そうみると、木曽川から見上げた犬山城は、まさに幕府の権威の出城のようなもので、徂徠でなくても仰ぎ見て白帝城と賛嘆したくなったことでしょう。

今に示す松浦党の誇り(平戸城)

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平戸の城は、海を外濠に見立てています。つまり海からの敵を想定した備えをとっており、海の覇者松浦氏ならではの城構えになっています。 松浦党は、鎌倉・室町時代にかけて肥前松浦4郡に割拠していた武士団で、松浦源氏が中心となっていました。平戸の松浦氏は、その松浦党の一族で、平戸藩初代の松浦鎮信は、秀吉の信頼が厚かったといいます。しかし、やがてこれが、災いの遠因となりました。 関ケ原の戦いが起こると、鎮信は、長子の久信を豊臣方に従わせ、自らは徳川方につきました。合戦後、久信は、世が徳川に傾くのを見通し、自害して一族の安泰を図りました。父鎮信の衝撃は大きいものでした。関ケ原の合戦で一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、その状況に自害という形で始末をつけるところが、松浦党の激しさなのでしょう。 平戸は、16世紀の半ば頃からポルトガル船との交易を進め、財政的にはゆとりがありました。鎮信は、その財力を背景に、1599(慶長4)年から、今の平戸城がある場所に城を築き始めました。14年かかって、ようやく城が完成しようという時に、鎮信は、その城を焼き払います。大坂冬の陣が迫っていた頃で、家康に忠誠心を疑われたからだと言われています。長子の自殺という犠牲まで払って守り抜いた所領、何としてでも守り切ってやるという気迫が伝わります。 その後、平戸藩は城を持たぬまま過ぎましたが、鎮信が城を焼いてからおよそ100年後、1718(享保3)年、同じ場所に城を造ってしまいます。鎮信と同じように14年の歳月をかけ、焼いた城と同じものを造りました。松浦党の意志と情念の凄さと言えるでしょうか。 1962(昭和37)年、突き出た岬に3層5階の天守閣が復元されました。松浦党の誇り高さはそのままに、天守は海を睨みつけているようです。 関連記事 → 華やかな大航海時代の面影と、キリスト教受難の歴史を持つ港町 - 平戸

予言秘めた名城の銀杏(熊本城)

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今に残る大規模な構えの熊本城は、加藤清正が築きました。城の完成を記念して、2本の銀杏が、天守閣前に植えられました。その時、清正は銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。 慶長年間、清正は一大築城工事を始め、白川と坪井川、井芹川の三つの川を外濠と内濠に利用して、壮大な城を造りました。 熊本城には、大小3基の天守を含め、5階の櫓が5基もあったといいます。実戦に強い名城と言われ、特に石垣は、清正公石垣と呼ばれる独特のものでした。それは、武者返しとも呼ばれ、上がそり返った独特の構造で、敵兵がよじ登って来れば、上の所ではね返す形になっていました。 実戦についての考えは徹底していました。城内には、120カ所の深井戸を掘り、天守閣の畳の芯には、カンピョウとかズイキなど食料になるものが使われたといいます。籠城戦に耐えられるようになっていたのです。 この名城も、清正の後、2代忠広の時に細川氏のものとなってしまいます。家中をまとめきれていないということで改易になったのですが、加藤氏が去っても、予言は城に残りました。 1877(明治10)年、西南の役が起こります。兵乱とは関係のなかった熊本城ですが、この戦いに巻き込まれてしまいます。銀杏は成長して、天守の高さに達していました。 熊本城には、政府軍の谷干城らの熊本鎮守台兵が立てこもり、それを、西郷隆盛を擁した薩摩士族軍が襲います。守りに強い名城はびくともしませんでした。しかし、この時の城内の出火で、宇土櫓などを残して、主な建物は焼失しました。 3層6重の一の天守と、2層4重の二の天守は1960(昭和35)年に復元されました。が、2016(平成28)年4月の熊本地震で大きな被害を受け、現在は復興のシンボルとして最優先で工事が進められた天守閣など一部のみが復旧を終え、完全復旧は2037年と言われています。築城から焼失そして復元へ、銀杏は、その360年の歴史を見ていたことになります。

天守を傾けた農民の睨み(松本城)

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遠くに北アルプスを望む松本は、その昔、深志と呼ばれていました。鳥羽川を挟んで、北側が北深志、南は南深志といい、この川を外掘にして松本城が造られました。そして、南に武家屋敷、北には町家が配置されました。 深志を松本と呼び改めたのは、1582(天正10)年にここへ入った小笠原貞慶で、小笠原氏は、室町時代の初めから信濃守護でしたから、いわば旧領を回復したわけです。その8年後、小笠原氏は下総古河3万石に移封され、松本へは石川氏が入って来ました。 今の松本城を築いたのは、その石川氏で、5重6階の大天守の北側に3重4階の小天守を配し、連結複合式の天守閣が完成したのは、1597(慶長2)年頃ではなかったか、と言われます。 その後、徳川将軍家と縁の深い者たちが松本城の主となり、3代将軍家光の頃には、堀田氏の後を受けて、水野氏が松本藩7万石の領主となりました。松本藩の年貢は、ほぼ五公五民で、収量の5割を上納するようになっていましたが、水野忠直の代になると財政が苦しくなり、徴税を強化しました。 1686(貞享3)年10月、厳しい年貢に耐えきれなくなって、農民たちがなんとかしてほしいと願い出ました。領内ほぼ全村の代表者たちが参加して、総勢1700人の農民が松本城へ押し寄せました。一部の者は城下の御用商人を襲撃し、幕府にも訴えると気勢をあげました。 藩は、家老連名で、要求を認める文書を出しましたが、農民たちが引き上げると態度をひるがえしました。11月になると一揆の中心となっていた中萱村(現・安曇野市三郷中萱)の多田嘉助ら36人を逮捕しました。8人は磔刑、20人が獄門、8人は追放という刑でした。 磔刑に処された嘉助は、磔台上で恨みの城をはったと睨みつけ、その睨みの力で、城の天守はやや傾いた、という伝承が残りました。磔刑の時に地震が起きたのだともいいます。北アルプスが雪に覆われていた季節の出来事でした。

新城にかけた藩祖の悲願(弘前城)

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弘前城跡は公園になっていて、四季に美しい場所です。明治になって桜が植えられ、今は5000本。秋には、紅葉が天守の白壁に映えます。 弘前城の天守閣は、もともとは5層で、本丸の西南の隅にあったと言われます。1627(寛永4)年秋、その天守閣の鯱に落雷、それがもとで、中に積んであった火薬が爆発し、天守閣は焼失してしまいました。今の3層の天守は、1810(文化7)年に、隅櫓を改造したものだといいます。 弘前城は南北に長く、東西に短い長方形の城で、三重の濠をめぐらし、西の岩木川、東の土淵川を天然の要害として利用していました。5層の天守閣は、西濠となる岩木川を見下ろし、津経のシンボル岩木山と向かい合っていました。津軽なら、岩木山はどこからでもよく見えます。その山と睨み合っているような天守閣は、まこと、この地の支配者の威風を示すものだったでしょう。 もともと、弘前には城などありませんでした。戦国時代の終わり頃、津軽地方の武将だった大浦為信が、およそ20年かけて、この地域を南部氏から攻め取り、豊臣秀吉の承認も取り付けてしまいます。為信は、独立してから津軽氏を名乗り、古城の堀越城を足場にしていました。 やがて、関ケ原の戦いが起こります。一代かけて手中にした津軽惣領主の地位は、守らなければなりません。為信は長子信建を豊臣方につけ、自らと次子信枚は徳川方に従いましたが、豊臣に賭けた家臣団の一部は、堀越城で反乱を起こします。津軽も天下分け目だったのです。 合戦後、惣領主の地位は信建が引き継ぎましたが、為信はなお実権を握り、堀越城からおよそ6km北西の地に、新城を築く計画を打ち出します。体制刷新の総仕上げでした。 計画から4年後の秋、信建は病没、為信も去り、結局、信枚が築城を成し遂げ、1611(慶長16)年、新城へ移りました。天守を山と向かい合わせたのは、あるいは、信枚の鎮魂の思いもあったのかもしれません。

地獄図秘めた不落の名城跡(鳥取城)

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戦いにさらされた城には、悲しい話がつきまとっています。守るにしろ、攻めるにしろ、命をかけて武者たちが争ったのですから、それが当たり前なのかもしれませんが、鳥取城のケースは、目を覆いたくなるものがあります。 鳥取城は、砂丘で知られた鳥取市の一角にそびえる山城で、堅固無類の城として知られていました。戦国時代、この地方では、山名氏や尼子氏、それに毛利氏が相せめぎ、やがて、天下布武を進める織田軍が西に侵攻して、毛利軍と激突することになりました。 1580(天正8)年6月、羽柴秀吉が中国地方総司令官として、鳥取城に迫り、町を焼き、人質を楯にして、城主を屈伏させてしまいます。ところが、これが気にくわないということで、重臣たちが新たな城主として吉川経家を迎え、鳥取城に立てこもってしまいました。 翌年6月、秀吉は2万の大軍を率いて鳥取城に向かい、城の周り3里(12km)四方を柵で囲みました。秀吉軍は、この地の米を買いあさり、辺りの農民をも城に追い込んだといわれ、城内は4000とも言われる人たちで満ちました。城につながる川には、乱杭や逆茂木が打ち込まれ、徹底した封鎖作戦がとられました。 鳥取城が難攻不落の山城であることを知り抜いていた秀吉は、「渇え殺し」といわれる作戦に出たのです。封鎖4カ月目に入ると、城内には飢え死ぬ者が続出し、牛馬はもとより木の実や皮など、食べられそうなものは、すべて食いつくされました。飢えて、骨と皮になった男や女が柵に取りすがって、出してくれとうめきました。それを、秀吉軍が鉄砲で射殺しました。城内の兵は、その死者の肉に取りついたといいます。 秀吉は、水攻めや兵糧攻めを得意としました。農民出の彼は、飢えのすさまじさを実感として知っていたに違いありません。知っていて飢餓地獄を実行したわけです。 明治になって解体された鳥取城は、1963(昭和38)年に修復され、静かな城跡には悲惨な過去の片影もありません。 

歴史尊ぶ土地の堅牢な浮城(高島城)

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諏訪市は、諏訪3万石の城下町で、城主の居城・高島城は「諏訪の殿様よい城持ちやる、うしろ松原前は湖」と歌われ、小藩には過ぎた名城と言われました。 高島城は、日根野高吉が築いたと言われ、1598(慶長3)年に完成しました。城は、諏訪湖の南岸に出来た中州のような地に、6年の歳月をかけて造られ、石垣などの石材は、舟で湖上を運ばれたといいます。 築城当時、城は湖に突き出た形になっていて、湖水が石垣を洗い、城へは人工の道を渡るしかなく、浮城と呼ばれていました。平城ながら攻めにくく、小ぶりの名城と言われていました。 城が出来て4年後、日根野氏は関ケ原合戦の戦後処理で、今の栃木県壬生町に移り、高島城には諏訪氏が入りました。 諏訪氏は、その名でも分かるように、もともとこの地の領主で、高島城の原型も諏訪氏が造った出城だったと言われます。この後、3万石余の藩として続きましたが、明治になって、佐幕派と見られたため、城は石垣と堀を残して取り壊されてしまいました。 1864(元治元)年3月、水戸の尊皇攘夷派天狗党が挙兵し、中仙道を通って大挙上洛するという騒ぎになりました。危険分子を通すわけにはいかないということで、諏訪藩は藩兵を出して迎え撃ちましたが、負けてしまいます。藩兵は城に籠もって門を閉ざし、襲撃に備えましたが、何事もなく、水戸の急進派は立ち去ってしまいました。それでもこのことが禍いして、諏訪藩は幕府側と見られてしまったといいます。 その後、城は川砂で埋まり、湖の趣きも変わって浮城の面影はなくなりましたが、1970(昭和45)年春、城跡に3層の天守と2層の隅櫓が再興され、城跡は公園となりました。 冬の諏訪湖は、湖面の結氷に亀裂が走る御神渡り神事で有名で、その記録が1443(嘉吉3)年以来保存されてきました。城跡は、そんな歴史を尊ぶ土地柄をも伝えているかのようです。

興亡150余年の山城の石組み(竹田城)

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城というと、とかく平地にある城を思い浮かべがちです。しかし、平地に城が築かれるようになったのは、織田信長や豊臣秀吉から後のことで、それ以前は山城が主流でした。 城は、もともと戦いに備えたものですから、守り易くて、攻めにくい所に造られ、天然の要害が利用されました。兵庫県朝来市和田山町にある竹田城跡も、代表的な中世の山城の跡と言われ、標高353mの古城山の山項にあります。 竹田城は、全体の形が虎の伏した姿に似ていると言われ、虎臥城と呼ばれていたといいます。城が造られたのは、1443(嘉吉3)年のことで、13年の年月をかけて、山名宗全が築いたと言われています。 山名宗全は、その頃の守護職で、但馬・備後・安芸・伊賀を治めていました。虎臥城の名は、あるいは宗全の勢威をそれとなく暗示した呼び名だったかもしれません。 竹田城には、山名氏の家臣・太田垣光景を配して、但馬の守りが固められましたが、応仁の大乱の後、肝心の山名氏が衰退してしまい、竹田城の太田垣氏らは勢いを増して自立しました。世は戦国、織田信長の上洛を機に、この地域の形勢はあわただしく動きます。 1577(天正5)年、信長軍の中国征伐が開始されます。10月、山陽道の総大将として羽柴秀吉が播磨に入り、但馬の竹田城は兵糧攻めをかけられました。威力を誇ったさしもの山城も落城、その後、播磨の龍野城主・赤松広英に預けられましたが、1600(慶長5)年、広英が因幡攻略の失敗で自刃、城も廃城となりました。 築城後150余年、城主はいずれも不運でしたが、山城としての竹田城の見事なイメージはそのまま残りました。今も、大手門、城櫓、天主台、北千畳、南千畳などの石組みが、整然と昔の面影を伝え、鳥が翼を広げたような威容を見せています。戦国の世の輿亡を偲ばせる山城の跡は、城が確かに戦いの拠点だったことを、思い起こさせずにはおきません。 

太閤が睨んだ海の霞の跡(肥前名護屋城)

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佐賀県唐津市鎮西町は、九州の西北、松浦半島の北部に位置し、中心の名護屋港は玄界灘の漁業基地になっています。半島沖1kmには加部島が横たわり、「壁」となって玄海の荒波をさえぎっています。 豊臣秀吉が、この地に朝鮮出兵の本営を置くことにしたのは、1591(天正19)年8月のことでした。その年1月、秀吉の弟秀長が51歳で逝き、2月には千利休が切腹、8月、子の鶴松丸が3歳で死にましだ。その同じ8月、秀吉の決定が下されたのです。 名護屋には、東西3町、南北2町の規模の城が築かれることになり、10月から、1日に4、5万人という膨大な人数が動員されて、工事が始まりました。敷地内の標高80余mの勝男岳頂上には本丸が置かれ、五層七階の天守閣が築かれました。天守は、造営担当の鍋島氏が、居城の天守閣を移築したものだったと言われます。また城外2里四方には全国諸将の屋敷始め商家や宿屋、遊郭まで造られ、南の小漁港はたちまち全国有数の大都市に変貌しました。 翌年4月、秀吉は約3万の将卒を率いて名護屋城に入りました。淀君もそれに従い、大坂から秀吉自慢の組立式の黄金の茶室も運び込まれました。5月、小西行長の軍勢が釜山攻撃に向かい、同じ月、秀吉は黄金の茶室で茶会を催しました。絶頂期の秀吉は、怖いもの知らずのやんちゃ坊主のようでした。 しかしその年7月、秀吉の母が病に倒れます。秀吉は、直ちに大坂へ帰りましたが、母の臨終に立ち会うことはできませんでした。その秀吉自身、母が死んでわずか6年後、63歳でこの世を去り、無謀な朝鮮出兵も終結となります。 名護屋城下の賑わいは、秀吉のうたかたの夢でしかありませんでした。出兵騒ぎが終わると、名護屋城も放置され、今は崩れ落ちた石垣が残るのみです。城跡に建つ「太閤が睨みし海の霞哉(青木月斗)」の句碑が、巨人の夢を偲ばせています。

江戸城と共に造られた武蔵国の要(岩槻城)

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さいたま市岩槻区は、江戸時代の寛永年間以来、人形で知られた伝統の町です。日光御成街道の宿場町でもあった岩槻はもともと、太田道灌と父道真がひらいた岩槻城の城下町でした。 岩槻城は、1457(長禄元)年に造られたと言われ、完成の年は江戸城と同じです。江戸城も道灌が父の協力を得て築城したと言われ、この二つの城に加えて、北に川越城を配した太田氏の備えは、鉄壁の構えと言われました。 岩槻城は、元荒川を東に配し、南北に干潟と丘陵を望む位置に造られました。武蔵国は低湿地でしたから、岩槻に忽然と姿を現した城は、その地に浮かぶ浮城とも呼ばれました。 岩槻城は、太田氏の衰退と共に持ち主が替わり、結局、北条氏のものとなりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の時に浅野長政軍に攻められて落城、更に徳川家康の関東入りと共に、その勢力下に入りました。城は、1609(慶長14)年 に焼けましたが、家康は、江戸の守りに欠かせぬ拠点として再建、この後、徳川幕府の老中幕閣が次々に入城してこの地を治めました。 寛永年間、日光東照宮が造営されましたが、それに携わった工人の一部が、御成街道筋のこの地に落ちつき、人形作りを始めました。それ以来、雛人形作りが岩槻藩の重要な産業となり、藩財政を支えました。その伝統が脈々と引き継がれ、今では、雛人形を始め、武者・木目込・御所などさまざまな種類の人形が作られ、生産体制も、人形の部分作りの専門家による分業体制がとられています。 岩槻の今に至る繁栄の途は、元をたどれば太田道真・道灌父子の先見の明に基づくものであったといえるでしょう。その礎となった城の跡は、今、公園となって、歴史を秘めた四季の美しさを見せています。 ※近年、岩槻城に関しては、忍城主・成田親泰の祖父にあたる成田資員が築城したとする説を始め、いくつか異説が出ており、築城者と築城年についてははっきりしていません。 関連記事 → 江戸時代から連綿と続く日本一の人形のまち - 岩槻

天下布武の想い秘められた城跡(安土城)

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1576(天正4)年1月、織田信長は、標高199mの安土山で城の普請を始めました。当時、信長は武田勝頼の軍を長篠に敗り、尾張から美濃、近江、伊勢一帯に威を示し、武をもって天下を治めようという勢いを見せていました。 今の安土は、JR東海道線の京都から11番目の駅で、城跡は駅から歩いて20分ばかりの所にあり、安土山も思ったほどには高くありません。しかし、信長が城を築いた頃は、京都につながる要衝の地と見られ、朝廷のある京都を支配するには格好の位置にありました。 城造りには、丹羽長秀が当たり、周辺の武士が動員されました。京都や奈良、堺の大工や職人が集められ、石垣を築くための石材は、辺りの寺から持ち込まれました。石仏をこわし、石臼をころがして積み上げたりもしました。当時、信長は石山本願寺との戦いの真っただ中にあって、仏門が俗世間を支配する中世的な権力構造と鋭く対立していました。 1579(天正7)年5月、安土城が完成すると、信長は早速移り住んで、法華と浄土の僧侶を対論させ、自らがその勝敗を判定しました。石山本願寺との戦いも、1580(天正8)年、信長の勝利で終わります。安土城は、信長によって開かれようとしていた新しい時代のシンボルでもありました。 安土城は、金箔の瓦を置いた五層七重の天守閣を持ち、天守の内部は上下七層を通して狩野永徳の描いた障壁画で飾られていたといいます。最上層には、中国の歴史に画題を得た三皇五帝などの人物画が描かれ、城に招かれたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスらは、あまりの見事さに圧倒されたとも言われます。 しかし、城が完成してわずか3年後、1582(天正10)年6月、信長は天下布武の願い半ばで本能寺に倒れ、城もまた同じ月、焼失しました。安土の天守で、49歳の信長が思い描いていたのは、どんな世であったのでしょうか、そんな感慨を誘う城跡です。 

関ケ原をめぐる興亡の歴史(大垣城)

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大垣城の築城については二つの説があります。一つは、鎌倉中期の武将・佐々木信綱の子孫が築いたというもので、他の一説では、美濃上岐氏の一族が築いたとしています。 大垣は、天下分け目の戦いがあった閤ケ原につながる道筋にあります。この位置が、大垣城の興亡にもかかわることになります。関ケ原は、奈良時代の東山道(後の中山道)の関所・不破の関があった所で、大垣は、そこに至る交通の重要拠点でした。 この大垣城が、歴史の表舞台に登場してくるのは、1600(慶長5)年のことで、その年6月、徳川家康が、上洛に応じない会津の上杉景勝を討つという名目で、大坂城を出発しました。豊臣氏ゆかりの加藤清正や福島正則らもこれに従って、7月には江戸城に入りました。 当時、五大老トップの家康と、五奉行の一人・石田三成とが対立、家康は、三成に挙兵させてこれを叩く機会をうかがっていたと言われ、会津攻めは、そのための布石であったといいます。 家康の軍勢が会津へ向かったとみた三成は、毛利輝元をかつぎ出して諸将に呼びかけ、7月、手始めにまず伏見城を攻め、これを落として、8月、6000の兵を率いて大垣城に入りました。計算通り三成が動いたので、家康も会津攻めを中止して兵を引き返し、家康軍の先鋒となった福島正則らは、岐阜城を攻めました。 家康は、9月1日に江戸城を発ちましたが、城攻めをする気はもともと無くて、三成軍を関ケ原に誘い出し、野戦で決着をつけようという作戦に出ました。家康軍は「一気に大坂城を討つ」というニセの情報を流し、これにのった三成軍は15日午前1時、大軍を関ケ原に移動させてしまいます。家康の思惑通りになったわけです。 一方、大垣城は三成の娘婿が守って、23日まで持ちこたえましたが、家康の勧告で城を開け渡すことになります。 今の天守閣は1949(昭和24)年に復元され、城祉公園のシンボルとして、城をめぐる人々の興亡を偲ばせています。